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正座が出来ていた頃に戻るには

正座できない

今時の年寄は正座のひとつも満足に出来ない。明治期に体育を輸入し、学校が椅子になり、その効果がようやく全ての世代に波及した。現住職のお婆さんはまだ正座ができたそうだ。夏の暑い時期を除いて年中和服で生活しており、亡くなる直前まで足腰はしっかりしていたという。この人の娘で、現住職のお母さんはもう正座ができなかったようである。現住職とその奥さん、そして当然僕自身も正座ができるとは言えない身体である。

お寺によく来てくれる人達も正座できない。正座の姿勢になることすら一苦労のお年寄も多い。このため寺としては本堂にも椅子を用意せざるを得ず、少しなら正座できるという若い人達も皆椅子に座ることになるという悪循環である。

物が多い

この寺には物が多い。良いと思って自分達で買ったものや、良いと思って檀家さんが持ってきてくれたもので溢れかえっている。これを少しは整理したいのだが。

中でも椅子に関してはどうしよもない。場所を取る。普段はあまり人が来ないのだがお盆やお彼岸には結構集まるようである。この時集まった人達はみんな椅子が必要だというので、かなりの数の椅子が寺に置いてあるのだが、片付ける場所が無いと言って本堂の端っこに出しっぱなしなのだ。一応重ねて並べてあるので整然とはしているが。というか中には多少は正座できる人もいるだろうからその人達は椅子いらんやん。それにたくさん人が集ったからといっても今ある椅子を全部並べる広さもないと思うのだが。

などと考えても、住職もその奥さんも頑である。必要だから置いている。場所がないから仕方ない。せっかく檀家さんが持ってきてくれたものだから仕方ない。

正座できる人ばかりなら椅子など全部捨てられる。中に一人や二人足の悪い人がいてもその程度の数を用意すれば済むのだ。人がぎゅうぎゅう詰めになるようなら座布団を敷かずに正座すればいい。日本の家は狭いんやから正座しようや。

老後の自由

正座が出来ると老後も自由に動ける。住職のお婆さんがいい例である。今時の年寄は医学の為にかろうじて生命活動を維持してはいるが、生きているようには見えない。身体が動きにくいのを年のせいにしているがそれは間違いだろう。若い時から身体の使い方を考えていればそんなことにはならない。甲野善紀を見れば分かる。黒田鉄山もそうだ。僕が知っている合気道家も多くは年をとっても身体に不自由はない。

死ぬまで身体を自由に動かすにはやはり身体の感覚を磨くのがいいと思う。その為に古武術や剣術、合気道などを習わなくても、正座するだけで十分だと思う。光岡英稔がそんな感じのことを言っていたかな。今の椅子というのは、椅子が人間を座らせているものが多いと思う。だから身体に合った椅子、座りやすい椅子などと言って売っているのだ。だれか椅子の本を書いていた。日本には良い椅子がないと。日本人は椅子に座らされるのが窮屈だったからではないか。日本人の身体観では、椅子が自分を座らせるよりも自分が椅子に座る方が心地良かったのではないか。正座の場合、下にはただ平たい床があるのみである。家によっては床板がゆがんでいるかもしれない。日本人はそこに自ら座って生活してきたのだ。床が人を座らせていた訳ではない。僕は人間工学に基づいたと言って売られているものが嫌いなのだが、そのような商品は人間が使うというより商品に人間が使わされるように感じていたのかもしれない。

普段から正座で生活する。これだけで老後の自由が手に入るんやからやらん手はないやん。

状況を変えたい

この状況をどうにか昔に戻せないものか。上に書いた以外にもいろいろな問題の根本には正座ができないことがあるように思う。ちょっと乱暴かな。然し正座が出来るだけで解決する問題は山ほどあると思う。

ではどうすれば日本人は再び正座できるようになるのだろう。最も根本的な解決策はやはり小学校から椅子を無くすことだと思う。我々は物心付いてよりこのかた、ひたすら正座をしない訓練を受けてきたと言えよう。そういえばなぜか幼稚園には椅子がなかった気がする。床で物を広げて遊んでいたような。記憶違いかな。他の解決策など無いと言ってもいいくらいかもしれない。

然しこれを実行するにはまず世間の意識を変える必要がある。そのためには今なら科学的根拠が便利か。科学っぽい根拠。正座して育った子供と正座せずに育った子供の将来の偏差値を適当にデータとして示せばいいだけなのでこの第一歩は割とすぐできるのかな。

あるいは寺子屋をやってそこでは正座させればいい。その後彼らの成長を追っていけばいい。何十年かやってメディアにでも取り上げられれば少しは正座を見直してくれそうなものである。

然し問題はここからかもしれない。良いことだと説得しても自分の生活に直結させる人があまりに少ないように思うからだ。樹木の重要性やコンクリートの有害性を言って納得してくれたように思っても、自分が掃除している庭はそれとは切りはなして考えるようである。その一方であまりにもメディアで大々的に取り上げられると、論理を一切考えずに全て受け入れてしまうようだ。マスクやワクチンの話である。と思っても、論理を無視してメディアを信じない人も居る。結局自分の信じたいことしか信じないというのはこういうことなのか。自分自身にこのような傾向があるのは実感していたが、僕の周囲の人達はどうも無意識のうちに情報を取捨選択しているようで、これでは自己反省もくそもできない。人のふりみてなんとかと人には言うが、自分自身には一切あてはめて考えないようなのだ。

正座が良いと言ってもきっと自分とは関係のない世界の話だと思って終わる可能性もある。現在でも棋士はずっと正座であり、その方が集中できるという話は聞くが、だからといって自分の生活に正座を取り入れる人は稀である。ではもっと大きく報道させて今のマスクのように流布すればいいのか。これは僕は嫌いである。ただ空気と同調圧力を形成するだけで、あらぬ方向に向かってしまう可能性も考えないといけない。やっぱり一番気分がいいのは自分自身で実行してその姿を世間に晒すことである。あとは世間が思い思いに判断して行動すればいいのだ。寺子屋で子供に正座をさせてその変化を観察するのがいいだろう。社会全体に変化があらわれるまで50年くらいかかるのかな。