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寺に適応できない

これまで

実家の菩提寺に入って出家した。坊主になってこの寺で生きていけないかと考えたのだ。ところが一年経った今でもこの寺に適応できていない。八月のお盆の間、住職は忙しくて朝のお勤めをしないので代わりにして欲しいと言われ、半月ばかり泊り込むことになった。ゆくゆく自分が住職に成ることを考え、これを機に半分寺に住み込もうと思い、お盆が済んでからもしばしば寺に泊まった。そうして八月はほぼ寺に居たのだが、その間寺に適応できずにどんどん自分の感情が萎れていった。とうとう適応障害と言えそうな状態にまでなり、九月と十月はほとんど実家に引き込もっている。どうしたものか。

なにがそんなにしんどいのか。住職の奥さんと一緒に居るのがしんどい。この人が何を考えているのか分からない。僕の言ったこともその場では肯定しているように感じることが多いが、あまり理解していないようだ。やるべきことは自分で見付けろと言いながら、なにかしようとすると拒否される。生活の面でもいろいろと噛み合わない。柔軟剤がきつすぎてしんどくなった。食事の脂が多すぎてお腹を壊した。台所が汚なすぎて気持が悪い。

柔軟剤

初めて寺に行って掃除を任された時から気になっていた。雑巾があまりにも臭いのだ。それも柔軟剤の臭いである。当時は実家から通っていたのだが、昼間寺の掃除をすると、家に帰ってからどんなに手を洗っても臭いが落ちないほどである。雑巾だけではなく寺にある布という布から悉く同じ柔軟剤の臭いがする。この臭いをいい臭いだという人の気が知れないのだが。

ある時檀家さんからもらった素麺をお裾分けしてもらったのだが、箱を包むビニールにも柔軟剤の臭いがこびりついていた。実家に持ち帰り後日湯掻いたのだが、素麺自体にも臭いがついていて食べられたものではなかった。他の家族も顔をしかめていた。勿体無いが全部廃棄した。

後で気付いたが、どうも寺中の埃から柔軟剤の臭いがするのだ。埃は布からでたものなので考えれば当たり前か。この埃が食品を保管している棚に積り、その中の素麺に臭いが移ったのだと思う。埃が臭うので寺中至る所その臭いである。

食事

寺での食事は脂が多い。ささやかな生活をしていると本人達は思っているようだが、食卓にはやたら牛肉が並ぶ。脂ののった鮭も多い。奥さんは歯がほとんどないので肉も魚も脂の乗ったやわらかいものでないと噛めないのだ。数えていないので適当だが、3回に1回は鮭、5回に1回は牛で、どれも脂でとろとろの物である。僕が胃腸が弱く、特に脂っこいものが苦手ということもあるが、少なくともこれでささやかとはどうも言えないように思う。

ところである日豚の肉塊で焼豚を作ったのだが、茹で汁を冷蔵した上澄みの脂を炒め物に使おうと取っておいたのだが、それは食べたくないらしい。固形の脂は体内でも固まって健康に悪いというテレビの知識だそうだ。普段あんなに肉の脂を取っているのにそれは気にならないらしい。理屈はよく分からんがそれよりも今から作らんとしている野菜炒めを食べてくれるのかどうかが重要なのでそれを聞いた。返事は「しいては食べないけど。」というあいまいなものだった。食べないならサラダ油で作るか、別に一品追加しないといけないのだがどうかと聞き直すと、「しいては食べないけど。」という返事が再び返ってくるだけだった。これ以上聞くのも面倒なので、僕はせっかく取っておいた豚の脂を捨ててサラダ油で野菜を炒めた。これは他のことでも感じていたことだが、この人には自分というものが無いのか、あるいはそれがあっても表に出さないようである。別件ですこし口論になったことがあるので、感情がない訳ではないのだが。エドワードルトワックという米国の戦略家曰く、こちらの言うことを全部受け入れる国より、自分の立場をはっきりと言う国の方が同盟国として信頼できるそうだ。そんなのあたりまえじゃないですか。まる。住職の奥さんはどうやら自分の考えや感情を見せず、相手に全部任せる方が信頼関係を築けると思っているようだ。責任を全部こちらに押し付けているようにしか僕には見えないのだが。

台所が汚ない

この寺はどこもかしこも物であふれかえっている。かろうじて法要に必要な本堂と控室はましだが、それでも不必要な物が多い。特に酷いのは台所である。おぞましい。寺の性質上貰い物が多いのはしかたがない。檀家さんにいろいろ貰ってそれをまた他の檀家さんに配るのだがそれでも余る。寺にいて消費するのは住職とその奥さんの二人だけであった。賞味期限がくるまでに食べきれないのはある意味仕方がないことでもある。本当は物を持ってくる檀家さんに寺の状況を話して少し持ってくる量を減らしてもらうべきだと思うのだが、奥さんはそうは考えない。檀家さんの気持をないがしろにできないからと、くれる物は断わらない。そして捨てる。これのどこがないがしろにしていないのかさっぱり理解できないが。ともかく現状は食べ物が多すぎるのだが、一番の問題は古い物を一向に捨てないことである。僕が寺に通い始めた頃は冷蔵庫がパンパンだった。しかも3台もである。二人暮しの家に小さくもない冷蔵庫が3台、悉く満杯だった。ある時台所にある冷蔵庫を上から下まで整理した。腐ったものを全部捨てた。奥からは2009年に賞味期限が切れたものなんかも出てきた。これは一番古い方だが、平均しても3年以上前のものだったと思う。ところで冷蔵庫の中からでてきたものは大体がスーパーなんかで奥さん自身が買ってきたもので、檀家さんから貰ったものはあまりなかった。檀家さんからの多すぎる貰い物に加え、自分でも異常に買い込むのだ。

この買い方もむちゃくちゃである。冷蔵庫の奥に抹茶が山程眠っていた。聞くとどれも自分で買ったものだと言う。お茶屋が友達なので行けば買わないと悪いとか、来客の為に新しい抹茶を用意したいとかで、無駄に多く買ってどれも処分しないのだ。ある日美味しくなさそうな出来合いのオムレツを買ってきた。どうやら本人も美味しくなさそうだと思いつつ買ったらしい。近くの個人経営の商店によく行くのだが、潰れては困るので欲しいものがなくても適当になにか買うのだそうだ。店の為に不要な物を買うのは良くないと思う。需要を歪めることになるからだ。大事な店ならむしろ自分が欲しい物を伝えて、要らない物は買わない方がいい。仕入れるかどうかは店の判断だろうが、客からも要望を伝えることで、その地域にとって必要な店になる可能性が高まるのではないか。不要なものでも買ってしまうと、結局好ましくない依存が生まれて返って店を潰すことになるか、そうでなくても地域に必要とされない店になるだろう。

冷蔵庫を一通り綺麗にしたその日の夕方、奥さんが大量の野菜と果物を仕入れてきた。流石に少し怒りが湧いた。そうでなくても奥さん自身、綺麗な冷蔵庫を喜んでいたので、再びちらかるようなことは避けようとも思い、そんなに大量に買ってこられるとまたぐちゃぐちゃになるだろうと小言を言っておいた。そんなに嫌味のつもりはなかったのだが。次の日も前日の野菜がたくさんあるにも関わらずまたいろいろ買ってきた。前日よりはさすがに少なかったが、同じように買いすぎだと思う旨を伝え、買ってきたものを何に使うのかひとつひとつ聞いてみた。すると見る見る顔が曇っていった。最後に、欲しいものを欲しい時に買って食べるのは自由だが、そのような買い物をするなら必ず冷蔵庫がぐちゃぐちゃになるから古い物はどんどん捨てていくことになるがそれでもいいのかと正すと、とうとう何も答えずにどこかに行ってしまった。その日の夕食はどうなったのか覚えていないが、多分普段通り食べたのだと思う。特に記憶にないということは、別にお通夜のようにはならなかったのだろう。次の日は朝から掃除に来ていた檀家さんとひと悶着あった。朝食の後になって奥さんがそのことで明らかに僕に対して敵意を剥き出しに、ああだこうだ言ってきた。内容はこまかくは覚えていないが、どうも檀家さんと僕とのやりとりと言うよりも前日のことについて攻めたてられたように思う。ひとつだけはっきり覚えているのは「論で言われると考えるのが面倒くさくなってしまう」という言葉だ。ではどうすればええねや。それから、檀家さんとのやりとりでは僕も良くない点があったのでそれを自分で分析するようなことを言うと、「自分で反省できて偉いわねぇ。」と言われた。こうも人の気持を逆撫でするようなことが言えるのかと思ったものだ。

調理器具も異常に多い。鍋もフライパンも同じような大きさのものがそれぞれ10個以上ある。使っていない調味料も置いたままである。冷蔵庫の他にもキッチンストッカーとか言ったか、間口が1m程度、奥行60cm程度、高さは2m近くあるような棚にびっしり保存食が詰っている。多分半分は賞味期限が切れている。この棚は台所の隣の4畳程の部屋にあるのだが、この部屋にはほかにも本棚のようなものが二つあってカップ麺やら乾物やらお菓子やらで埋まっている。足元にはダンボールに入った缶ジュースがあったり、使っていない家電があったり、変色した調味料のビンなんかもあったと思う。勝手に整理する訳にもいかず、整理を手伝っても冷蔵庫の時のようになりそうで、毎日一人の時間にただ眺めることしかできなかった。ある日疲れてぼーっとしているところを奥さんに見られたが、たまたま顔が食器棚に向いていたために、「物が多いと思ってるんでしょ。」と言われた。先方も僕がそこに居るだけで結構な心理的負担を感じているのだろうか。

檀家さんとの口論

檀家さんの話が出たのでここに書いておく。

この檀家さんには以前、清澄寺という日蓮宗の聖地の森がコンクリートで覆われてたいへんだという話しをしていた。土をコンクリートにしてしまっては周囲の環境を著しく痛めてしまうという話である。このときは高田宏臣氏の本を持ち出して説明し、賛同してくれた。ある朝この檀家さんが境内の落葉を掃除している所に奥さんも居たので話しかけた。この時も高田さんの名前も出したように思うが、落葉を残して腐葉土にできないかとか、もっと境内に木を増やした方がいいのではないかなどと話すと、この檀家さんは落葉が積もると汚ないし、木が増えると虫が沸き、また管理も大変だからむしろコンクリートを増やすべきだと言った。前回コンクリートの話で同意してくれたのは何だったのか。

ところで話をしているとこの檀家さんの顔がみるみる曇り、最後にはとうとうまっくろけになってしまったのは怖かった。また、上で書いた自分の反省というのは、落葉を掃除している所に落葉を掃除しすぎるのは良くないのではないかという話を持ち掛けたことについてである。

物を捨てられない

台所も汚いが、他の場所も物で溢れている。檀家さんに貰った物、檀家さんが作ってくれた物、自分で買った物。もちろん必要な物もあるだろうが、問題は奥さんも住職も不要だと思いながら捨てずにいる物である。檀家さんの気持を蔑ろにできないから捨てないというのはあまりにも問題である。結局それのせいで寺が汚なくなっては檀家さんの面目を返って潰しているのではないか。土地柄、檀家さんには漆器屋さんが多い。漆の盆は押入に積み上がっている。どこかの旅行のお土産といってでかい塗の囲炉裏をくれたが、これは部屋の隅に起きっぱなしで使ったためしがない。昔本堂で使う椅子がなく、急遽檀家さんが空き缶を束ねてダンボールかなにかと布で綺麗に包んだものが今も本堂の隅に出しっぱなしで、使っているのを見たことがない。二人暮しなのに大きな食器棚が6個くらいある。どれもぱんぱんに詰っている。昔は檀家さんがよく集って食事をしたそうだがそれでもなお余るほど多い。何十年も寺に通っている信者さんが、今でも来るたびに初めて見るカップが出てくるという。箪笥が多い。使っていないものもある。ひどいことに同じ箪笥を2個重ねて置いている。上にではなく、前後に2個重ねているのである。1個無駄じゃん!ねぇよ赤外線はよぉ。

寺というのは俗世間にはない空気を作るべき場所ではないのか。綺麗に片付けて掃除して、物で溢れた豊かなこの世界にあって、物質的ではない本当の豊かさを提示する場所でなくていいのだろうか。物質的な豊かさを賞賛するのであれば寺はもっと金儲けに走るべきであろう。そうしないのはそうではないものを世間に見せるためであろうに。

人格を感じられない人

住職の奥さんにしても、上に書いた檀家さんにしても、本人が一体何を考え、感じているのか僕にはさっぱり掴めない。上に書いた檀家さんとのやりとりだけでなく、住職の奥さんも普段の会話では僕の考えに概ね賛同してくれる。始めは話の合う人なのかと思っていたがどうもそうではなかったらしい。この人達は自分に関係のない話に関してはその場の雰囲気や同調を重視して賛同しているような空気を作りだすが、自分に関係のある話しになると突然豹変して自らの利権を死守しようとするようである。僕はこの一年、このような人と付き合うことに疲れてしまったようである。僕はこのような人の感情を読むことができず、何を考えているのかも分からない。論理的に考えるのも無駄だった。僕はこの人達に一切の信頼を置くことができない。